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ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

コラボ:ただ抱擁の時は過ぎ 1

この場をお借りして、この企画を私達に提案し、いつも励まし応援してくださった
ぴかろんさんに心より感謝の意を表します。
このブログに参加し皆様と共に過ごせることを嬉しく、そして誇りに思います。



~To everyone who loves this weblog and this story~


Original story: Ashiban
Illustration: Ashiban
Music selection: Orlie
Lyrics selection and translation: Rosy
Tanka: Rosy
Script edition: Orlie
Text edition: Rosy
Coordinator: Picalon




Collaboration work「ただ抱擁の時は過ぎ」


時はゆく

うるりと動かぬ
ふりをして
水面(みなも)の影は
色を変える

時はいう

すぎる風の肩に
ゆだねよと
はける波のひだに
ゆだねよと

酷にみえるその時も
ただ宙(そら)の法則にすぎぬ
草も虫も水も肉も
ただそこに生まれ逝く
意味はない
かたちなどというものに

おまえは愛し
おまえは生きた

それだけでいい
ただそれだけでいい




 Scene D’amour,Francis Lai by Sarah Brightman ()No. 14


 帰りゆく 命は海へ 流れゆく 愛の記憶を 風に遺して



1

窓に陽がほとんど当たらなくなったころ
ジンはゆっくりとベッドから抜け出し紺色のカーテンを開ける。
それは彼の日課となっていた。

・・・・・・

2年前までジンは精神科医として多忙な毎日を送っていた。

相手の内面に的確に触れていく彼のカウンセリングは
多くの患者の闇を解きほぐし、患者の家族からも信頼されていた。

その自信に満ちた態度から時にやっかみも聞かれた。
しかしほとんどの同僚から慕われ、上司からも将来を期待されていた。
洗練された容姿は女性の熱い眼差しを集め多くの女性と付き合いもしたが
将来を考えるような出会いは一度もなかった。

・・・・・・

仕事に充実感をおぼえるジンにとって順風といえる日々だったのだろう。

・・・・・・

その男、ヒョンジュが彼の患者としてやって来るまでは。

・・・・・・

仕事に取りかかろうとして、ジンはいきなり頭が冷たくなるのを感じた。
目眩のような感覚に似ている。
そっと腕に頭を乗せ
スリープに変わったパソコンの淡い画面をぼんやりと見る。
いつものことだ。

昔の自分に戻れるかもしれないと何度か思ったこともある。
しかしいつもずるずると闇の中に引きずり込まれる。

もう自分の心臓はとうに張り裂けてそこには何も残っていない。
もがいて何かに掴まりたくても、手はいつも空(くう)をかいて終わる。

p1-1ジンアップ


ようやく身体を起こすと一番上の薄い引き出しに手を掛け
暫く躊躇してから箱を引いた。
雑多の一番奥から1通の封筒を取り出す。
しわのよった白い封筒。

ジンはそれの表に書かれた「ジン へ」という文字をそっと指でなぞる。
そして中から1枚の紙を取り出した。

もう苦しまないでください。

その短い文を何万回読み返したことだろう。
そしてその文字を目にする度にジンは果てしない闇の波の中にゆっくりと横たわる。
そこが一番安らげる場所であるかのように。



 Nocturne No. 19 in E Minor,Op.72 No.1(夜想曲第19番ホ短調), Chopin () No. 13


 屠られた傷の痛みを紛らせる毒を求めて彷徨う夜に



ヒョンジュ…ヒョンジュ…
君に触れたい…どうしようもなく触れたい…
孤独と哀しみの波が容赦なく彼を呑み込む。


ヒョンジュの幻影に捕われる日は何も手につかず
そんな時は頭の闇を払い夜の街に出る。

適度に雰囲気のある店のカウンターで濃い目の酒をあおれば
しばし苦痛の泥から解放されるような錯覚をおぼえる。
暫くすればたいがい女性の視線が絡む。
端正な顔立ちに深い影をおとす夜の彼は妖しく魅惑的に映ることだろう。

気分が乗れば自分からグラスを持って立つ。
ふたり連れの女性を口説いたこともあれば
男性の連れがいるはずの女性をレストルームの入口で落としたこともあった。
罪に背を向ける瞬間の自嘲の快感。

・・・・・・

ヒョンジュへの想いに押し潰されそうになった時
誰でもいい、ただ暖かい肌に触れていたい。
その虚しい時間の愚かさを自身もわかってはいる。
しかしそんなことでしか紛らわすことができずにいた。
期待していた時の経過はまだ何の癒しのヒントも与えてくれない。

・・・・・・

ジンは時々海に行く。
決まって曇った日の午後。
砂浜に座り
あれ以来やめている煙草を吸う。
ヒョンジュと一度だけ来た砂浜。
ヒョンジュが好きだと言った灰色と緑色の混ざった海の色。


そして…
ヒョンジュをのみ込んだ白い波。






ヒョンジュが初めてジンの前に現れたのは5月のある晴れた日だった。
開け放った窓から緑の香りがするような
気持ちのいい午後だったことをジンは憶えている。
彼がヒョンジュの担当になったのは
単なる病院内の医師のローテーションによるものだ。

ヒョンジュには彼を見守ってきた叔母が付き添っていた。

・・・・・・

ヒョンジュは初対面のカウンセラーをただじっと見つめ
初夏を予感させる風が白いカーテンを揺らすと
それに誘われるようにふわりと窓の外に目を向ける。

彼の瞳はまるで音楽を”見て”いるように穏やかだったが
しかしその奥には拭い切れない哀しい色が潜んでいるようだとジンは感じた。
そして実際に彼の歴史は
仕事がら辛い人生を多く見てきたジンにとっても心痛むものだった。


ヒョンジュは裕福な家庭のひとり息子であったが
幼少より父親の教育は異常なまでに厳しく
それは年を追うごとに度を超すものとなっていく。

・・・・・・

学業、全てにおいて父の面目を傷つけるようなことがあれば仕打ちが待つ。
ただ恐怖の日々を過ごし
父の理想の自分に近づくために怯えながら息を殺し続けた年月。
母のために全てを封じ込め受け入れ続けてきた彼の心は
長い長い時間をかけて感情を滞らせていった。

怒りや怖れ、嫌悪を感じなくなること
それが生き抜く方法だった。
自分を守るために。
母親を守るために。

・・・・・・

ヒョンジュの大学最後の夏。
彼の母は夫と十年近くも続いていた女性の存在を知り
その心は粉々に破壊された。
長年夫を怖れ、張りつめ耐え続けてきた最後の一線が鈍い音を立てたのだ。

息子ヒョンジュへの愛と対面を必死に守ってきた彼女はもう既に限界だったのだろう。
彼女は無言のまま刃物で夫に切り付けた後
息子の目前で自身の命を絶った。



 Prelude in E minor,Op.28 No.4(前奏曲第4番) Chopin ()Disc 1, No. 6


 苦しみの酷き終わりは突然に 悲劇の幕は下りると見せて



その光景がヒョンジュの目にどう映ったのかはわからない。
ひとが駆けつけた時、彼の顔に表情はなかったという。
ただ膝に抱いた母のその身体を決して離そうとしなかったらしいと
ヒョンジュの叔母は辛そうに話した。


母は還らず、怪我を負った父は彼を残して家を出た。
母の妹である叔母に引き取られたヒョンジュは社会に溶け込むことなく
家業の小さな花園でひっそりと花に水をやり生きてきた。

詩を読み、音楽を聴き、花の世話をし…
皮肉にも愛する者を亡くして初めて手に入れた穏やかな日々。

母の狂気の日以来、彼は言葉と自分を失った。

長い年月の呪縛の喪失は彼自身の喪失でもあったのだろう。

全ての記憶がはっきりしているにも拘らず
自分の過去と今ここにいる自分が分離している。
過去はまるで映画を観た記憶のように客観的にしまわれ
彼が持って生まれた一番純粋な部分だけが生き続けた。

ジンはヒョンジュに接し
次第に心揺さぶられる自分に気づく。
人間は生まれた時はみな無垢だったことを思い知らされる。

恐れも嫉妬も焦燥も忘れた凪いだ瞳。
ヒョンジュに流れる時間とはただ生きることを意味している。

飛び立つ鳥を風のように見送り
木漏れる光をその手のひらで受け
頬づえをついて雨の滴の行方を飽きることなく追う

夢を歩くように遠くを見る彼を見ればジンは思う。
自分が費やしてきた欲望の時間はいったい何だったのだろうと。

・・・・・・

せめてこの魂を守りたい…
医者としてではなく。
ジンがそう感じるのにさほど時間はかからなかった。

ある日カウンセリングで公園を歩いた時
ヒョンジュは子供が持っている白い風船を眩しそうに見て筆談用のノートに書いた。

 小さなころ買ってもらった風船をわざと飛ばした
 一緒に飛んで行きたかった

過去と自分が束の間繋がったのかもしれない。

ジンは風船を見つめるヒョンジュの手を握った。
そして握り返すその手のぬくもりに
ささやかな甘えを感じたのを憶えている。

・・・・・・

一度だけヒョンジュが泣いたことがある。
何かの繋がりで大きな桜の木の話をしている時だった。
筆談の手が止まりヒョンジュの目が遠く彷徨う。



 Songs without words No.1 in E Major,Op-19b-1, Sweet Remembrance
 (無言歌第1巻第1番ホ長調),Mendelssohn () Disc 1, No. 1



 始まりの記憶の中にたゆたいて そのまなざしは 言葉無き歌

 くちづけん 詩を失くしたくちびるに 渇きも知らぬそのたましひに



そしてゆっくりとジンを振り返るその頬にひとすじの涙が伝った。
突如父との針の先ほど僅かな幸せだった時間が蘇ったのだ。
しかしそれが一体どういう感情なのかわからないまま懐かしい涙が流れた。

・・・・・・

そしてその涙はジンの想いそのものでもあった。
同じように父に厳しく育てられたジン。
貧しさのため何もかもが自由にならなかった父は祖父を蔑み自力で地位を築いた。
そしてその屈辱の記憶が息子ジンへの厳しい教育の執着となった。

ジンは父に暗く冷たい反発を感じながらも思いをおくびにも出さず
父を越えるべく抵抗を続けた。
自分の価値感を押しつける父には絶対に屈したくない。
そんな思いは妹にも見せたことはなかった。

30余年の時を経てついに父を見返したかのごとく成功を収めた自分だが
目の前のヒョンジュを見れば深い虚しさを感じる。

自分をなくした彼と一体どれほどの違いがあるのだ…

p1-2惹かれる


ジンは安楽椅子に座るヒョンジュの涙を指で拭い
ゆっくりと唇を重ねた。
そうすることが自然だった。

目を閉じて静かに応えるヒョンジュ。
ジンの柔らかい唇が何度も触れそして優しく包み込む。
彼にとって生まれて初めて感じる潤いの瞬間。
何という温もりだろう…
言葉にはできない溢れるほどの安らぎに満たされた。


今でもジンはヒョンジュとの狂おしい夢をみる。



 Adagio for strings (弦楽のためのアダージョ),Barber () No. 1


 狂おしき 夜毎の夢のアダージョの 極みの刹那 覚めるを知りつつ

 夢醒めて 独りの闇に濃く残る 君の匂いを掻き抱く夜



うねった白いシーツに潤んだ目で横たわるヒョンジュ。
丹念なくちづけの後ジンは彼と深く繋がる。
寄せられた眉とこぼれる涙
彼の恍惚の表情に気が狂いそうな昂りをおぼえ…夢はそこで終わる。

朦朧とした頭にヒョンジュの喉の残像が揺れ
ジンはひとり暗闇の中で自分の肩を抱く。

実際にジンはヒョンジュと最後の繋がりをもったことはない。

いつそうなっても不自然ではなかったのかもしれない。
優しく抱き合いその滑らかな肌に唇を這わせた。
時間をかけてヒョンジュの昂りの全てを受け止めてやった。
しかし最後の繋がりだけは躊躇われた。
どうしても踏み込めなかった。

なぜそうしなかったのだろう。
あまりに純粋なその魂を欲望で貫きたくなかったのか。
いっそそうしていれば美しい思い出に溺れることができたのか。
より悪魔のような泥沼にはまっているのか。

出るはずのない答えを求めてはもがき
浮上の夢と諦めの間(はざま)を彷徨っていた。






ソニからのある日のメールに展覧会の知らせがあった。
フリーダ・カーロ展。
メキシコの女流画家だ。

 この人の絵にとても興味があります。

ただそれだけだった。

フリーダの作品を知ってはいた。
特徴ある彼女の作品は一度見たら忘れられない。
ずいぶん昔に美術雑誌で目にしたことはあるが
その頃多忙だったジンには深く感心を持つ余裕はなかった。

・・・・・・

その日の夕方、仕方なく買い物に出る用事ができなければ
或いはそれまでだったのかもしれない。

いつものOA機器店で買い物を済ませ外に出ると
街のショウウィンドウが美しく灯り始めている。
そして美しいヘッドライトが流れる向こうの大通りに
カーロ展のギャラリーがあることを思い出した。

ジンは暫くそこに佇んでその通りを見つめていた。
そこは微かに胸痛む場所でもある。
自分しか知らないヒョンジュの思い出があるからだ。



 Sorry seems to be the hardest word (悲しみのバラード), Elton John () Disc 1, No. 17

 It’s sad, so sad
 It’s a sad, sad situation
 And it’s getting more and more absurd
 It’s sad, so sad
 Why can’t we talk it over
 Oh it seems to me
 That sorry seems to be the hardest word


 幸せの時間(とき)は儚く 愛おしく なをさら悲し想い出の街

 君がいた 君を見つめる僕がいた 誰にも邪魔をされたくなかった・・・



ヒョンジュと穏やかに過ごした僅かな時間
ささやかではあるがふたりで外出を楽しんだこともある。
その日もヒョンジュが読みたがっていた本を買いに行き
帰りにその通りの小さなカフェに立ち寄った。
窓際の席でヒョンジュは買ったばかりの詩の本をめくっている。

ジンがふと車の行き交う通りの向こうのショウウィンドウに目を留めたのは
そこに何となく違和感を感じたからだ。
年配の清掃員が窓の中からこちらを凝視している。
定休日なのか店の中に人影はなく
窓を拭きかけたまま人形のように動かない男のシルエットは妙だった。
初めは見るともなく見ていたジンだが
暫くして突然心臓がズキリと痛み、慌ててその男を見直した。
いきなり身体が熱くなる。
以前ヒョンジュの叔母が見せてくれた一枚の写真とその男がはっきりと重なったのだ。

ジンの心拍数はたちまち上がった。

ヒョンジュの父親…そう直感した。

・・・・・・

彼は戻らなければならぬ時間になったことを理由に
ヒョンジュを促してその店を出た。

・・・・・・

その後二度とその男の姿を見かけることはなかったが
あの時の自分の行動はあれでよかったのか
今でも後悔のような気持ちに襲われる。

ジンはゆっくりその通りに向かった。
避けてばかりはいられない…そんな気持ちもどこかにあった。

しかし久しぶりに目にするその一角は見慣れない雑居ビルとなっており
向かいのあのカフェも日本料理店に変わっていた。
ジンは交差するライトをぼんやり見つめ暫く立っていた。
何もかもが遥か昔の夢のように思える。
ジンは深いため息をつき
ふらりとギャラリーの方向へと歩き出した。

比較的大きな会場は最終日の閉館間近であるためか
人もまばらで静かだ。
ジンは入口付近の略歴を読み中へ進む。



 Sonata in D minor,Pastralle,L.413 (ソナタニ短調,田園,L.413),Scarlatti () Disc 1, No. 11


 絶望と渇きの大地耕しぬ 果ての実りに生命(いのち)滴る



フリーダはメキシコ革命のころに幼少期を過ごしている。
6歳の時に発症した小児麻痺と闘い、孤独な少女期を経て医学の道を目指すも
交通事故で脊髄を損傷、絶望と苦痛の中、絵の世界を知る。
その後画家ディエゴ・リベラと結ばれるが
夫の女性問題によって愛憎渦巻く過酷な結婚生活を送った。
蝕まれた身体を引きずり後年はベッドの中で作品を描き続け47歳の生涯を閉じる。

おびただしい数の自画像。
力強いというにはあまりに激しい表現。

・・・・・・

次第に会場を歩いているのが辛くなった。
頭の奥が痺れるようだ。
フリーダの何十もの眼差しが自分をえぐるような錯覚をおぼえる。
「おまえはなぜまだ生きているのだ」と言われている気さえする。

しかしようやく最後の部屋に辿り着いた時ジンはある一点に目を奪われた。
そこにはひとつのまったく違った印象の作品があった。

瑞々しいスイカの絵。
フリーダの遺作だった。

ジンは静かにその絵の前に立った。
「Viva la Vida」と題されたその絵は美しい色彩で生命感に溢れ
太陽と大地の匂いがする。
ジンはずいぶん長いことそのスイカの鮮やかな赤に見とれていた。 

「生命万歳という意味です」

不意に背後から声がしてジンは振り返った。
声の主はその部屋に入って来た時からそのソファに腰掛けていた若い女性。
ジンが微笑んで会釈し絵に視線を戻すと
またその女性の声がした。

「こんな人生なのに…なぜ最後にこの言葉なんでしょうね」

・・・・・・

ジンはソファに近づき女性の横に腰掛けた。
彼女は座ったままスイカの絵を見続けている。
ジンもその場でその絵に目を向けた。

「でも…死ぬ間際にはわかるのかもしれませんね」

ジンはその言葉にどきりとしてまた彼女を見た。
少し茶色味を帯びた瞳は絵の向こうの遥か遠い場所を見ているようだ。

・・・・・・

p1-3ソニとの出会い


その夜は仕事をする気にもなれず
書斎でぼんやりと過ごしていた。

ソニからメールが届いたのはかなり遅い時間だ。

 今日はお会いできて嬉しかったです。
 名乗る勇気はでませんでした。すみません。

ジンは驚いて声を出しそうになった。
そして慌ててあの女性の顔を思い浮かべる努力をした。
ホテルの年上の女性でもなくOA機器店の愛想の無い店員でもない。
展覧会場の女性だ。

・・・・・・

心動かされるできごとではあったが
しかしジンは返信をしなかった。
あなただったんですか?
そんな陳腐な言葉を書くことに意味があるとはとても思えず
ジンはその日はそのままパソコンを閉じた。

 こんな人生なのに…なぜ最後にこの言葉なんでしょうね

その夜は彼女の言葉が何度も頭に浮かび消えた。

・・・・・・






ソニとの再会の機会は突然やってきた。

このところ少し気分のいい日が続いていたジンは
出版社に出向き編集者との打ち合わせをした。
担当は珍しいジンのお出ましに驚き昼食まで馳走してくれた。

他人と食事をしたのはどれくらいぶりだろう。
帰り道ジンはヒョンジュとの最後の食事を思い出した。

海岸に面した食堂でヒョンジュはメウンタンをおいしそうに食べた。
嬉しそうに微笑むその顔が忘れられない。
辛いと言いながら食べる僕の顔を穴があくほどじっと見つめていた。
あの眼が忘れられない。


p1-4忘れられない瞳



 Words,Bee Gees ()Disc 1, No. 6

 It's only words and words are all I have
 To take your heart away

 それはただの言葉
 言葉だけで僕は君の心をさらってゆく


 その深き 瞳の色の静けさを 別れを惜しむ 言葉と知らず

 その髪を その唇を その指を すべてを失くす 明日を知らず



あの日寄り添って歩いた海岸の空気。
風に吹かれ遥か水平の彼方を見渡すヒョンジュの深い瞳の色。


突然
ジンはまた痺れる感覚に襲われた。
足元の歩道がゆがみ周りの一切の音が遮断される。
頭の中が冷たくなりその場にうずくまった。

目を開けると白い天井と匂いから、そこが病院であることがわかり
見渡せば救急のベッドに寝かされていることもわかる。
通りかかった人に支えられすぐ側の建物まで歩いたことは
ぼんやりと憶えていた。

医師が近づきいくつか質問をする。
ジンは自分の精神的な病の話をしてもう大丈夫だと告げ
心配はなさそうだと判断した医師の許可でベッドを下りた。
いつもはこれほど酷くはない。
今日は少し無理をし過ぎたのだろうか。

受付で言われた通りの手続きを済ませ
隅のソファーに座ろうとして動きを止めた。
ロビーの向こう端にあの展覧会場の女性が立っていたのだ。

彼女は病院のヘルパーと思われる制服に身を包み
手に何やら沢山の白い布の束を持って驚いた顔でこちらを見ている。

ジンがゆっくり彼女に近づくと
ソニは少し緊張したように小さく頭を下げた。

・・・・・・

その日からジンは何かの拍子にソニを思い出す。
病院での彼女は展覧会の時ともメールでの彼女とも違った印象で
同一人物なんだろうかとちょっとおかしな興味も持った。

・・・・・・

病院の日以来彼女からメールは来ない。
ジンからも送ってはいない。
あえて今伝えたいようなことは何もない、とは思っていた。


ある夕方
ジンは懐かしい香りに目を覚ました。
閉め忘れた窓から急に強く降った雨の香りが立ちのぼる。

・・・・・・

暫く考えてジンは観念したように息を吐き
そして出掛ける仕度をした。
ソニに会いに行こう、と頭のどこかがそう言った。

病院に出入りする全ての人が通ると思われる場所で
大きな樹に寄りかかって行き過ぎる人々を眺め
さわさわと流れる風と葉の音を聞いていた。

・・・・・・

1時間が過ぎたころ、緩やかなスロープを下りて来るソニの姿があった。
下を向いて歩いている彼女が自分の前を素通りした時もジンは動かなかった。
そして何歩か先で立ち止まったソニが振り向いた時
彼は初めて微笑んだ。

「こんばんは」
「先生…」
「もし夕食がまだでしたらご一緒に…タッケジャンなんかいかがですか?」

・・・・・・

近くの小さな店で食事をする間
ふたりの会話はこれといって踏み込んだものではなかった。
元々ふたりともそれほど口数が多い方ではない。
今まで雑誌に掲載されたジンの文や
メールで交わしてきた内容などの当たり障りのない話をした。

こんな時でもジンはやはり彼女の内面を観察してしまう。
静かな物腰のソニのどこかに見える閉じ込められた憂いと強い意志は
メールのやりとりのころから感じていたものと変わらなかった。

 こんな人生なのに…

あの言葉の意味するところに彼女の想いの底辺があるのだろう。

・・・・・・

ふたりは店内の客のざわめきを聞きながらゆっくりと時間を過ごした。


 Two less lonely people in the world
 And it's gonna be fine
 Out of all the people in the world
 I just can't believe you're mine

 この世界に孤独を抜け出した人間が二人いる
 それは素敵なこと
 世界中のすべての人の中から
 君が僕を選んでくれたことが信じられない

 Two less lonely people in the world (夜明けのふたり), Air Supply ()No. 12


 それぞれの孤独の夜は明け初めて 憂いの雲の切れ切れの間に



「また会ってもらえますか?」

歩いて帰るという彼女を無理矢理タクシーに乗せながら言うと
ソニは「はい」と小さな声で応えた。
ジンは車の灯を見送りながら、らしくもない自分に苦笑した。
以前の自分は会って”もらえるか”などという誘い方はしなかったものだ。

ジンはその日の自分に僅かなゆとりを感じた。

・・・・・・

その後ジンとソニは外で幾度か会った。
彼女の仕事が忙しく長い時間ではなかったが
それでも食事をし、無名作家の小さな個展を覗いたりもした。
ジンにとってはどこか根の部分で波長の合う彼女との時間に安らぎを感じた。

そしてソニの言葉から彼女の人生が見えはじめた。

・・・・・・

父は日本人であること。
自分が生まれる前に日本に帰ってしまい父のない子供として育てられたこと。
そんな境遇が偏見を呼び彼女にとってあまりに辛い幼少期だったこと。
母は長患いで他界したこと。
成人して結婚を誓った男性にひどく裏切られ死のうとしたこと。
そしてその時期にたまたまジンの文に出会ったこと。

「先生はあの時こう書かれていたんです。死は人を救わないって」
「君はそこに突っ込んで来たんだ」
「もの凄く頭にきたんです。何にもわかってないくせにって」

ちょっと照れくさそうにソニは俯いた。




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